ひとつの死、ひとつの生

MARIKO (平成4年卒)


 6月17日、山梨の山の中で、大郷さんはそのいとおしき命をわずか26年間で断った。25日の夜その連絡をうけた。翌日、お通夜と葬儀が行われる茨城県の土浦市に向かう間、前日の電話の大郷さんが亡くなったんだよ」という声を何度も頭に再生させるたびに、何かまるで何もかもすべてが断ち切られたと表現する「亡くなった」という言葉に困惑しつつ、自分の目の前でうごいている人間がこんなにもいて電車などが動いていて大きなビルがたっていて何も変わったことのないように時間が過ぎていることに疑問を感じ得ないのであった。
 お通夜におそらく50人近いクラプ員が集まった。夜の9時すぎから祭壇のある部屋で私達は彼を囲んで一晩中飲み明かした。「私達は悲しまない様にしようと話し合って決めました。」とご両親は毅然と語ってくださり、お兄さんと弟さんは夜中ずっと私達につきあってくださった。
 何か彼に関する思い出が話にでるたびに私達は泣いては笑い、飲んでは泣き、そして語り、ふたたび笑った、まるで子供のように。私達にしてみれぱあまりにあっけない死。それをどう受け止めてよいのかやはりよくわからないまま、あの夜は過ぎていったように思う。死んでしまうとすべてが0になってしまう。まだやりたいことがあったのにといえぱきりがないが、笑うことも泣くことも、感じることも悩むこともできなくなる。
 でも、彼はもしかして喜んでいるかも知れない。6月最初のOBランで仲間にたくさん会い、翌週は札幌で研究発表をして、そこでも多くの仲間と、しかもいちぱん素晴らしい季節に、ペチアで集い、そして自然に帰っていくことができて。彼は喜んでいるかもしれないと思うのは残されたものの勝手な正当化だろうか。おそらくそれは正当化でも美化でもなく、残されたものが生きて行く為には必要なことなのだろう。そして彼もおそらくそれを許してくれるに違いない。ただ、その代償を私連は背負っていることを忘れてはいけない。 − それは何か。 
 死といったものが生きている限り決して避けられないものであり、しかもそれが常に一体としてあることを意識している必要があると思う。私達の生は有限だからこそいとおしく、嬉しく、哀しくそして悩ましい。時間が限られているからこそ、その短い生の中でいかに自己実現していくか、いかに自らの生の価値を見いだすか思い悩み、何かを創造し残していくことに喜ぴを感じるのに違いない。1つの死を知るごとに、私達は生きることを知っていく。それらは理屈で固められたものなのではない。おそらく、ほとんど感情から生まれて、その感情の深さと、感情からの脱皮、発展の実現が深く生きる道へ行けるかどうかを決めるのではないか。
 それにしても死んでしまうことは0になることである。この言葉を発し、私はこれが半分本当で半分うそだと思っている。たとえ人間の生は有限なもので断ち切られたとしても、他の人間のなかで人は生きることができると今まで信じてきたし今でも信じたい。自分が死んだ時そうなってほしいと願うからなのだが、私はどうしても彼の生を保つ様にしたいのだ。大郷さんや古賀がこれからも私達と共にいきて行く為には私達一人一人の感情の深さか必要なのではないか。彼は幸せなのだ、という一見勝手な考えも、私達の感情の深さによって実現できはしないか。
 私は自らが生きた証をなるべく多く残したいという欲望を捨てられない。だからこそ一人でも多くの人に会い、一つでも多くの文章を残し何か創造的なものにかかわれる生を追い求めることをやめられない。人を愛し愛されることの欲望はもしかしたらさけられない死を無意識のうちに感じるからこそ起こるものなのかもしれない。今私達がなすことは唯一つ。生きることだ。しかも明日死がきても悔いはないと言い切れるほどに。 


 6月24日、私たちの仲間から新しい生が誕生した。高木てんたくん(仮名)。いわゆるてんたこと高木**パバの息子である。彼の前途洋々たる未来が、どうぞ愛に包まれているようにひたすら願うばかりである。赤ちやんの輝かしさというのは、なんでも許せる力がある。(てんたくんには会っていないがおそらくそうであろうと想像する。)おそらく彼らのその輝きで、世の中に平和をもたらすこともできるほどに彼らはほんとうの力をもっている。ほんとうの力が、どうぞ形になるように、どこまでも感受性豊かな人間になれますように。新しい生は私達を幸せにさせる。そこにも一つ、私達が生きる意義を感じずにはいられない。 
 同年代の友達が親になってゆくケースが決して少なくない年になってきた。子供を生むなんてとんでもないことのように思ってきたが(今でも結構思っているが)だんだんそんな時期もすぎていくようである。自分の子供をもちたい欲望は、自らが生きた証を残したい欲望の一つともいえるかもしれない。自分の有限の生を悲しむつもりはなくても、子供をもつことで、少しは永遠をつながるものに期待するのかもしれない。しかしそれ以上に子供をもつことで自分に与えられる影響、刺激といったものを、おそらく期待している。生と生がぷつかるこれほどのドラマもそうそうないだろう。私の母がときおり言うのだが、「母親は娘をもつことで二度人生を生きることができる」という言葉は今の私を励ますことのみならず、女として生きていく喜びも、いつかは子供を持ちたいと思う気持ちへもつないでくれる(父親、息子の場合は知らない)自分の生きたいように生きるにはどうしたらいいか、を模索していくうえで、やはりペースとなるのはいかに情深く生きていける、深い情緒力をもってきていけるか、ということなのである。好きなことをやる喜び、そこまで達し得ない苦しみ、その他もろもろ、 自らやることなすことおそらくすべてに私連は感情をもっている。それをいつも感じていられるこころをもつことこそ、、、