ネパール紀行

                      あおやま

1993年の11月に約半月間、ネパールに行ってきました。
クラプでもう何人も行っている所なので、なるべく自分にしか書けないようなことを適当に書こうと思います。

   ネパールという国

ヒンズー教と仏教の国。ティハール(ヒンズー教のお祭り。正月)と曼陀羅の国。南のインド、北の中国にがっちり挟まれ、身動きのとれない弱小国。
ヒマラヤ山脈の国。8848メートルの「世界最高蜂」には3通りの呼び名がある。英語の「エベレスト」、チベット語の「チョモランマ」、サンスクリット語の「サガルマータ」。その「サガルマータ」がネパールでの公称ということになっている。でも良く通じたのはなぜか「エベレスト」。
観光立国。それ以外の産業は皆無に近い。都市部には土産物屋が多く、トレッキングルートには外国人向けのホテル兼レストラン(といってもボロ小室)が立ち並ぶ。でも世界最貧の発展途上国。

   ネパール人

貧しい。この一言につきる。たいていの人は信じられないくらい貧しい。でも一部の大変裕福な人もいた。それはシェルパ族の人だった。
それはひょんなことからトレッキング許可証や飛行機の手配をしてもらって、大変世話になったギャルツェンという人だが、彼はカトマンズで旅行代理店を経営しており、自社ビルだけで7つ持っていた。
ちなみに「ギャルツェン」という名は、シェルパ族の牟では大変メジャーらしい。苗字は全員、民族名を使う。カトマンズで3人のシェルパ人に会ったのだが、実に3人とも「ギャルツェン・シェルパさん」だった。

   ダンプス村のクシェ(30歳、男)

 トレッキングガイドとして、1日4ドルで雇った人である。雇って正解。集しく歩けて、いい社会勉強にもなった。
 この人は貧しいネパール人の典型。家族で働ける体を持っているのは彼1人、しかもその家族というのが17人もいる。でも下位カーストの彼には仕事が回ってこない、だから職探しはゲリラ戦法だ。カモは旅行者。かれは「ガイドでもポーターでもキッチンボーイでも何でもやらせてくれ」とすさまじい見幕で付きまとう。
大変な勉強家である。英、独、仏、露、伊、中、ヒンズー語、そしてネパール語が堪能(片言ではない)。「全部ガイドをして覚えていったのだ。」と自慢げに話していたが、なぜか日本語は話せない。でも他の8言語が本当ペラペラなのには驚いた。ついでにオーストラリアなまりの英語も使い分られる。
こんな彼だが、一度考えさせられたことがあった。
トレッキングの最終日。ゴラパニ峠からひたすら下り、だいぶ広くなった沢べりで、2人で休憩していた時のこと.
 クシェ 「いつも不思議に思うのだが、この川の水はどこへ行くのか.」
 青山  「海だ」
 クシェ 「何だそれは」
なんと、彼は海を知らなかった。

   ハッシシ

大麻のことである。クシェは常用者(珍しいことではない)だったのでトレッキング中、勧められるまま毎晩タダで吸っていた。
何やら酒を飲んだ時の感覚と似て、浮遊感がある。やたらと饒舌になり何でもいいから議論したくてしょうがない、という心境になる。作用は人によってまちまちだと言われる。会社の先輩にも試した人がいるが、彼によると「オレンジ色が襲ってくるので大変怖かった」そうだ。しかしこの説明は何を言わんとするのか不明である。
吸ったハッシシは所詮貧乏人の物だから、良質ではなかったと思う.そもそもクシェのような貧乏人がどうやって手!こ入れるのだろうか
「山から採ってきて自分で乾燥させて紙に巻く」そうだ.「街で買うのは出所が分からないから危険。絶対買うな」とも忠告された

   ナイトライフ

トレッキング中の夜は何もすることがない。何もすることがないからたいてい宿の中で酒盛りが始まる。私は酒は嫌いなので、飲む代わりにハッシシを吸って話をした。これがなかなか調子良くて、毎晩ハッシシを吸って誰かと片言の英語で話をしていた。ちなみに難しい言い回しはお互い何度も聞き返さないと、ほとんど通じない。それでも話をした。
タダパニの村で会ったフランス人の家庭は代々クリスチャン.だが彼だけは棄教してしまったという。
 「それはどうして?」
 「私の価値観は「個人主嚢」だから。キリスト教に限らず、宗教はいつでも必ず何かを強制する。強制は嫌いなのだ」クシェが口をはさんだ。
 「私はヒンズー教徒。洗礼も受けた。でもカーストのおかげでいつも貧乏だ。だからヒンズー教が憎い」 「ではなぜヒンズー教徒をやめないのか」
 「先祖がそうだったから逃げられないのだ。今の宗教なんてそんなもの。結局暮らしを左右するのは「金」なのだ。神がいてもいなくても、生きていくためには金がないと話にならない」。フランス人が一言。
「拮局、全てはその人自身のr選択」にかかっている。選択できることそれ自体を‡重すべきだ」。
会話がかみ合っていない気もするが、フランス人が「個人主義」、ネパール人が「金」という言葉を持ち出すあたり、国の事情が見え隠れしている。ところで、このやりとりの後「religion=宗教」だと初めて分かった。

    チョムロン

印象深かったのがチョムロン。トレッキングルートにある村である。
息苦しく、殺伐とした山道を登り切って広がる景色は、まるでこの世の桃源郵を思わせる.とまで言ってしまうのはウソかも知れないが、鮮やかな黄、オレンジの花が咲き乱れる中、石畳の道を「カラン、コロン」とロバの隊商の行きかう姿を見て、疲れきった体がどれだけ癒えたか.
祈りの声。ひずめの音。歌うようなざわめき。久保田早紀の「異邦人」が口につく。ちょっとズリこいてみただけの未亡人。見上げれば、眼前にド迫力のアンナプルナ南蜂。タ焼けに染まって幻想的だ.
チョムロンの宿に、イタリアから来たという絵描きがいた。
外の日だまりで山を見ながらのんびり描いている。絵を見せてもらったそれは山の絵ではなく、複雑な抽象画だった。
 「これは何か」
と等ねると
 「分からない。むしろ私が聞きたい」
いくつかの作品を見せてもらったが、そこにはすべて「OSHO」という文字が入っている。
 「これはあなたの名前か」と尋ねると、また
 「違う。むしろ私が間きたい」??
チョムロンの学校へ通うガキがたくさんいた。彼らは私を見て
 「チショパー二、タトパー二、ジャーパーニ」と歌う
 チショパニは冷水、タトパニはお湯のことで、ジャパニは言わずもがな・日本人のことである。
これは椰楡されていた訳ではない。チョムロンにはこのあたりにしては珍しく電灯がある。由来は日本人にあるのだそうだ。
その人は苦労して近くの沢に水車を作り、そこから電気を引いて、各家庭電灯をつけて回った。今はほとんどガソリンの自家発電になってしまった、そのため日本人には大変良い感情を持っている。