東北・道南ツアーの最終日、大通り公園の噴水前で。
部長の原林をはじめとして、副部長に一見はちゃめちゃなトモくん他、強烈なメンバーがそろい、部長の恐いカラーを代表してかなり強引な代だったと思います。(下の代から後で「恐かった」という話をよく聞いた)
レースよりもクラブラン参加を強く勧めたので、当時レースをやる人がかなり減ったと思われます。
執行部になった秋は、一つ下の代が3人しかおらず、クラブ存続にかなりの危機感を持っていたため、新人勧誘はかなりがんばり、1年目がたくさん入ってきた時にはほっとしました。
「男女区別なく扱う」をモットーにしたので、以降飲んで潰れる女性部員も増えました。
あだなを全員に(むりやり)付けようとしたため、当時の1年目にはほぼ付いています。(このころからあだなは「付けるものだ」という風潮が出てきたのでしょうか。)
「まず、飲め」でした。飲めない後輩が「もう飲めません」と言っても「だまされんぞ」と言って、さらに飲ませて潰した話は有名です。
「酒の飲み方・飲ませ方」は、上の人から杯を受ける時は、必ず飲み干してから(もしくは必ず口を付ける、半分位は飲む)両手で受ける」というように指導していました。飲めない人はかなりつらかったと思います。反対に、飲んで潰れることが快感になり、「自ら潰れることを好む」後輩達も現われました。
今考えると、事故が無くて本当に良かったです。(うまこ)
クラブの伝統(?)を守り、米は男2合、女1合。おかずは一人3人分計算でした。「通し」がきつかった。
88年の道南道東ツアーで食中毒が発生。多くの部員が病院送りや札幌送還になり、一時はどうなるかと思われましたが、入院した執行部はむりやり病院を抜け出しなんとか走りぬきました。
うちは並みいる体育会系チームに食い込むくらいの実力があった.高木さん(下品な方)の影響が大きかった.
チーム名は「○×○×原林組」というのが数年続いた.執行部の時は何だったか忘れたけど(銀輪には書いてあるかも),「戦慄の原林組」は強かった.「よろしかったら原林組」「うしろゆび原林組」というのもあった.大体試合は乱闘寸前の流血試合で,相手チームには歯を折った奴とか,耳にグローブの金具が刺さってイヤリングになった奴もいた.主犯はもちろん朋.(by たかと)
新歓の頃からツアー前くらいまで竜馬だったと思う.その後は竜馬から変わった海援隊に少し,ここもすぐつぶれた.結局,青い鳥だったんじゃなかったっけ.
1次会で執行部一人5000円くらい払ってたし,大抵誰かを田岡にかついでいってもうこっちが力尽きてたんで,ほとんど2次会に行った記憶がないなあ.行ったとしたら,なんかんか小銀くらいだと思うけど.ポイントビッグ21という安いカラオケ屋もあった.(by たかと)
月並みなところでは:宝来,正本,時館,北海(N23にあった頃の),ラーメン大将,ジャッキモウリ,ジャンヌなくなってしまったものでは(執行部の頃にあったかどうかは忘れた):得々(N18にあった),みよしの(同),東急寿司の日(毎月19(とうきゅう)日),
マイナーのところでは:龍昌(字が違うかも.田岡の裏の旧5号線沿いにあった)。 (by たかと)
現役はすべてランドナー。
原林 ヴィスコンテ
朋、うまこ、こいやん バルボア
仁,オガ,上見 シルク
飽食 エンペラー
たかと ベニックス
部長 原林
副部長・渉外長 朋
記録長 上見
備品長 仁
会計長・銀輪編集長 飽食
企画長 たかと
酒飲み大仏 パンチパーマがリアルで好評 |
情報源: うまこ、たかと (同期へ。。勝手に書きましたが、間違ったこと、足らない点は補足してください)